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第二章  私の印刷テクノロジー黎明期・創設期



戦争が終わって、5年程して私が生まれ、父は、更に、1~2年程して印刷業を初め、又、その時導入したのが、祖父や曾祖父が模造に失敗した、手動式平版印刷機なのです。
時代は昭和25年、またしても朝鮮戦争が勃発、それから3年も戦争は続くのてす。
3才くらいの頃、突然、戦車が並んで停まって、一階にいた祖父と何か話しをしている様で、慌ただしく二階の雨戸を閉められ、窓から離れる様に言われた記憶と、戦車が節穴から、すりガラスに投影されて、その姿が、異様に大きかった事、得体のしれない音を立てて、退屈な時間が、過ぎ去るのを待った事が、唯一、事象の目撃でした。
印刷機も戦前には、 枚葉輪転印刷機、となり、大理石の版から、金属版に代わっておりました。
更にテクノロジーが進み、空には、 ジェット戦闘機が飛行機雲を引いて、飛んでおりました。枚葉輪転印刷機 は、
モーターを使って 動き、ですが印刷用紙は全て手差しで、人が一枚、一枚、連続してレジストリしながら(見当を合わせながら)手動で用紙を 供給する大変な仕事でした。印刷機は、 明治初頭、西洋 から 取り入れて既に、70年近くが経っておりました。枚葉輪転印刷機 の機械プレートには、中島と書いてあった。
断裁機も空襲で焼け落ちて、数が少なく、 紙を束ねて包丁で切っておりました。住む家も、自身で増改築 、戦後7~8年もすると、 印刷機も周辺機器もすごい勢いで 作られて来ました。
昭和28年頃までには 焼け野原はなくなっていたようです。 私の目に 焼け野原の記憶が 残らない様に 一切焼け跡は見せて貰えませんでした。 戦前の機械類は総てユーザーサイドには立っておらず、製造の都合優先 、戦後、小森印刷機械株式会社、が使う側に立った 、新しい理念のもとに作られた 最新の機械、と言う事でした。
その後機械メーカーは、ユーザーフレンドリーな 機械を目指し 、製造していく会社、が増えてきました。当時、平版印刷はラベルやタグなど後加工のある物が多かった気がします。 アルバム や綺麗な写真は、コロタイプと云って、すりガラス上の、感光膜の粒子を利用して印刷する方法により、卒業写真集なとに使われ、 当時は コロタイプも平版も 用途別 で、他に凸版方式、凹版方式も以前から存在していました。大理石の版は大きく、重たいのですが、型上げと云って原版をチャイナ紙に転写し、複製を作るには、必要なアイテムでした。見当良く印刷するには、その都度、版の微調整をして、さらに午前と午後では湿度が変わり台紙の寸法に伸縮が出たので、版を作り変えていたのです。 直角を出す作図技法は素晴らしく、常に、コンマ台を維持していたのです。それでも、 1日のうちに 温度と湿度が与える影響は大きかった訳です。
絵柄を色分けし、版へ転写し、印刷版を作り、枚葉輪転印刷機 に取り付けて印刷して、次の版も同様に、
色を乗せて行き、正確に仕上げるのです。ところが、印刷するには水も使うし、
温度湿度の影響は、コントロール出来ない、大きな問題だったのです。当時、普通には
湿度調整はできませんでした。(大和、武蔵には冷房設備があったのですが)、
日が昇ると湿度が上がり、日が落ちると急激に湿度が下がりました 。小さなこの影響は、 後々ずっとつきまとう大きな問題になるのです。
元々用紙は製造段階で調湿してある訳ではなく、抄紙機(紙を作る大きな機械)より流れ出て、乾燥した所で排出カットされ、梱包される訳で、温度湿度による伸縮は考慮されていませんでした。後に調湿品も登場するのですが、未調湿よりましな程度でした。
当時、用紙は、伸縮が激しく(現在も伸縮はあります)。印刷室内の湿度に合わせるため、シーズニングする必要がありました。(天井に大きなガラス玉で、用紙を吊るす装置を設置して、用紙を10ミリ厚ぐらいで、吊るすのです) 
此処までして、更に、見当の少ない部分から印刷を開始するのです。
全ては、ずれのない綺麗な印刷物を仕上げる為で、出来る事は、全てを出し尽くし、
物事に当たる、この精神は、当時の日本の技術屋なら当たり前の事でした。
菊半裁の手差し印刷機は、 30数年後、よその会社のショールームに展示されることになります。
この機械が当時の最先端印刷機でした。



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