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第一章 テクノロジーについて



近年のテクノロジーは各分野に於いて凄まじい勢いで進んでいます。
ヨーロッパの産業革命が我が国に与えた影響は、江戸末期、明治維新、明治初期に凄まじい物がありました。
 浮世絵に使われた木版画は日本の独特の文化です。
その時代に西洋から現在の平版印刷の原型、リソグラフが入ってきた。
蒸気機関も鉄製品を造るための反射炉から作り、素早く蒸気機関エンジンを模造するなど当時の日本は、
ペリー来航以来、各藩、益々、西洋技術や軍事技術を貪欲なまでに吸収していったのは、
西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬、のみならず、日本中が総力をあげて欧米文化を取り入れ、試行錯誤した多数の邦人の危機意識により成された。
 江戸末期、私の曾祖父「熊本城を築城した加藤清正の後、細川藩、家老として水前寺公園を造ったご先祖さまを持つ父方」、 は平版印刷術、等を吸収し明治初頭の秩禄処分政策により、その沈静化の為、政府より与えられた金子にて、 平版印刷機械(小型リソグラフ)を模造し改造しようとしたようです。(のち祖父も引き継ぐ)
当時鉄製品を作るには 大変な金額が掛かったでしょう、いったいどう云うものを作ろうとしたのか、聞き及ぶに、 ギヤも力を伝えるだけのの荒々しい物しかなく、動力も小型の物は無い時代、
精度を保ちながら画像を転写する方法としてワイヤー方式を取り入れ、模造したようです。
そこで、先程述べたように小型動力も無い時代、動力源は人力となり、鋳型を造り円柱を削り、ネジ溝を掘り、 ワイヤーを作り、完成した手動印刷機は残念ながら大きすぎて二人掛かりでも動かなかったそうです。
このように設計思想の乏しい時代に、よくもチャレンジしたものだと驚かされます。
時代は富国強兵の真っ只中、帝都も益々近代化が進み、造船技術もイギリスからの輸入に頼りながら技術の移転を懸命に進めていた。
そういう時代に平版印刷術とは、当時、桁外れに最先端な、
ケミカル技術だったに違いない。
 当時は、欧米列強が覇権主義を当然のごとく植民地化していく、大航海時代の果てに、更に利権を求め軍艦や軍隊を盾に勢力圏拡大をしていく時代、 軍艦や大砲が国の尊厳を保つ不可欠な物として重要視され邦人の利権を守るためにも行使されてきた。
日清戦争勃発後、邦人の利権を守るため更に、ロシアとも衝突、利権を求め突き進むさまは、まるで江戸末期、 列強が大航海時代、利権を求め、勢力圏を拡大して行く。
正に其れであった。
欧米の先端技術や文化を急いで取り入れても、 歪みを生じるのは、後に見ても明らかになるのですが、列強や覇権主義に対抗した様が、国民の生活を苦しいものにしていった。

時は1899年 明治32年 パリ万博にて凄いものが発表されるとの情報により、母方の祖父が、渡仏、そこで見た、ガソリンによる内燃機関搭載車を、 カール・ベンツや、ゴットリーブ・ダイムラー、が開発、蒸気機関エンジンにとって変わる時代を予感させる、未来を示す凄いテクノロジーでした。
 将来、母方の祖父は、内燃機関の燃料と、潤滑油を扱う事となります。
1871年、廃藩置県から明治9年に実施した秩禄処分により、1877年明治10年に士族の反乱が起こり、この西南戦争の戦費やその後、沈静化のおかげで、 莫大な出費をしてしまうのです。
憲法もまだ無い、明治初頭、これが後々に影響を与えることになります。
1894年(明治27年)朝鮮国内の甲牛農民戦争をきっかけに日本・清王朝 (清) が朝鮮に出兵、その後、日清戦争が勃発、明治28年下関条約で、台湾を譲り受け、 朝鮮の独立を認めさせ、遼東半島・澎湖諸島・賠償金3億円を勝ち取るのです。
その後、フランス・ドイツ・ロシア、三国から遼東半島を返却するように干渉されます。
が、地政学的に呑みにくいもので、ついに大国ロシアと戦争となりますが、日本は大国と長期に亘り戦争を遂行する事は困難になります。
ところが、相手国ロシアに革命が起こり、戦争遂行ができず、アメリカを仲介者に、ポーツマス条約を結ぶのです。
日本は、賠償金を請求しますが、負けた訳では無いので、と、賠償金を拒否、代わりに樺太の北緯50度以南を日本に渡す事、 中国(当時の清)、から借りている、旅順・大連の租借権を日本に渡す事、沿海州近辺の漁業権を認める事等、賠償金は取れませんでしたが、
日清戦争・日露戦争・連勝続き、勝った、勝ったと、国内では大騒ぎだったそうです。
 その後、独立した朝鮮と清は、歴史に残る複雑な動きをするのです。
西太后は秘密結社義和団の反乱を支持し、 我が国と、欧米列強に宣戦布告をして、
列強と戦闘を始めるのです。
 後に清は、莫大な賠償を支払う事となります。
江戸末期、列強を警戒して維新に身を呈して散って行った邦人の生きざまを思えば、清王朝、西太后の行動は軽率と云わざるえません。 斯くして日本は列強ともうまく立ち回っていましたが、目を付けられその後の軍部の暴走とあいまって、 軍備に規制を掛けられるようになり、のちに軍備増強の為、自国で軍艦を造るようになります。
大鑑巨砲主義は実戦により、どの国も競って戦争準備を始めます。
世界は第一次大戦以降、技術革新も進み、各国益々軍備に磨きを掛けて行くのです。
我が国の造船技術も軍艦の製造に、世界にも最先端な、木型を使わない、現在の造船方法を、編み出したのでした。
木型を船のなかに残した方法より軽くなり、スピードが上がったのです。
世界レベルとなった造船技術を使い新艦を造るようになり、大型大砲や、計測距技術、を搭載して行ったのです。
いまだにエンジンは蒸気機関で、駄目なところも沢山ありましたが、昭和に入ると、秘密裏にあの戦艦大和と戦艦武蔵の建造に着手するのです。
私の父は二番艦の戦艦武蔵の建造技師として、最新建造分野、設計図通りに正確に測量しながら鉄板にトレースする、 総てがマル秘、厳重な身元調査の後、採用されるのです。
起工から進水まで3年、就航まで5年、の歳月と国家予算を使って、戦艦として建造された最後の艦となるのです。
その当時父たちは武蔵を設計変更しておればと、後に申しておりました。
その後三番艦、信濃は空母に設計変更されたのです。
四番艦は製造中止。
 長男の父は軍隊に志願、その後、満州へ砲兵隊測量班として進駐、 戦争末期、南方へ転進するため台湾へ、そこで、輸送船が、ことごとく沈められ、足止めに、再三の空襲に合っている頃、
父の三番目の弟は、大村海軍航空隊から転進、戦うにも戦う航空機がなくなり、特攻しかないと特攻隊に志願、知覧から出撃していつたのでした。
しかし、まともに飛べる飛行機も少なくなり、エンジントラブルで奄美の小島に不時着、本来なら爆弾を背中に積んでいるので爆死するのですが、 操縦しながら信管を抜くと云う芸当をやってのけるのです。
漁師に助けられ知覧へ、そのご沖縄本島近辺の艦艇へ向けて出撃して行ったのです。
ところが、またしてもエンジントラブルで、小島に不時着、爆弾を積んだまま二度も無事に帰還、 このような事態に陥るに至るのは、
さかのぼること三十数年、母方の祖父が渡仏すること、十数年前、日清戦争の前、日本は西南の役、で大変な金額をその収束に使っており、その時、 清の北洋艦隊、最新戦艦を見せびらかしに長崎に寄港させたり、水兵による暴動事件を起こし、粗暴な北洋艦隊に対抗すべく、新戦艦を、との必要性に 、・・・・建造するのに、お金がなく、その時、皇室から20円、天皇陛下自らの提供でありました。
これを受け西南の役、以来、金が無い政府内では、 理屈抜きに、金を集めることになります。
母方の曾祖父は、当時、博多から、公共事業用の土管や七輪を上方へ納品しておりましたので、曾祖父へも ・・・ 。
 以後、母方の曾祖父、なんまん吉兵衛さんは、息子への政治の関与やその教育を嫌うのです。
日清戦争では間に合いませんでしたが、次の日露戦争で役に立つのです。
パリ万博へ見聞を広める為、渡仏した、祖父は、 あまりにも日本の現状、現実の違いから、浮世離れしたお話しとなりますが、進んだ話やテクノロジーは、受け入れられるのに時間が、掛かるもので、最先端テクノロジーが、直ぐに、ビジネスに繋がるものではないようです。
 世界は日露戦争その後1914年~1918年、 大正3年~大正7年、第一次世界大戦勃発、約四年間、戦いが続き、テクノロジーは大戦後、航空機を発達させます。
それもやはり英国やドイツのユンカースが、有名で、時代も1927年、昭和 2年頃になります。その後、欧米の初飛行から三十数年も遅れて零式艦上戦闘機が誕生するのです。
軽量戦闘機は当初大活躍するのですが、航空機が大艦を沈める道具となり、それを自ら、証明する出来事が近づいて来ます。生産量や品質管理に問題がある日本、 第一次大戦まで、列強の仲間として動いていた日本がその後、軍部の暴走に始まり、明治維新以来危険なまでに各国、破壊力ある軍備を手にしたことで、 益々軍拡や、経済制裁により圧力を受ける事となり、抜き差しならぬ事態へと進んでいったのです。
日清日露戦争が小難で済んだが経験則が役立たず、 世界一秩序ある軍隊であっても勝てば官軍負ければ賊軍、と後に父は申しておりました。
 よりにもよって、アメリカと開戦する事になるとは、維新以来、テクノロジーが進み、その都度アジアに欧米列強の怖さを説いてきた日本は、その軍隊に、おごりのような、文民統制の取れない現実が、このような事態を招いたのだと、思えて来ました。
 父の三番目の弟は、二度も救出され、流石に三度目は無い。と、次の出撃が決まり、今生の別れだと、前日、のみたい放題、食いたい放題をやったらしいのです。
出撃当日、悲惨な状態に、腹を壊し、出撃どころではなくなり、やむ無く、次の出撃へ、・・・
 一方、台湾にいた父は、パイナップル畑で、日本刀を抜き、思いっきり、切りつけておりました。
後に、粗製品の日本刀に、驚き、よくもこのような武器で戦に勝とうなどと思っていたものだと。
 母方の祖父は昭和になって石油製品の販売を始めるのですが、次第に、経済制裁のあおりにより、統制品となり、潤滑油の再生など、しておりました。
終戦後、商工会の理事長をしていた関係上、今後の在り方を話し合い、石油タンクが焼け残った喜多村民人さんは陸上を受け持って頂き、船が残った、出光佐三さんには海上をお願いし、本人はタクシー会社を始めると、燃料や潤滑油を離れたのです。
終戦となり、特攻隊として生き残った、父の弟は、祖父・曾祖父が戦前、印刷機を作ろうとして失敗し、その関係で、印刷業をしておりました、その影響で平版印刷全般の技術を持ち合わせていた為、東京で印刷業を始めます。
母方の祖父は、タクシー会社を作ると、申しておりましたが、戦後、直ぐに需要が、あるわけではありません。
なのに、そうこうしている間に、昔の仕事仲間や知り合いが、ぞくぞく復員してきて昔のように仕事を再開させたいと、母方の祖父の元へ押し掛けて来るのです。
祖父は戦争で荒廃した現状から、再建させるべく、まず祖母の実家の百貨店を再建すべく、資金を送り、寺にも相当な額のお金を寄進し、ことごとく復員した昔の知り合いの事業保証人になり、
自動車を数台購入し、整備の出来る、当時の航空整備士を雇い、戦後まもない時期に、凄まじい勢いで、動き始めるのです。
 同じく、やがて台湾から復員してきた父も、印刷業を始めるべく奔走するのですが、資金の出どころが決まらず、佐賀の福博で会社勤めをし、数年後に、福岡に出て、印刷会社で勤め、その後、お見合いにて、母と所帯を持つのです。
父は戦争で無駄にした時間を惜しむように、仕事に没頭しておりました。
その頃までに、母方の祖父が、保証人と成った事業保証の数は、片手では数えきれない程のものに成っておりました。昔のような商いが、通用する時代では無くなって、事業資金を融資するのではなく、連帯保証となるのは、最悪の選択で、焼け野原となった現状を見て、平常心ではいられなかったのでしょう。
数年の間に、貨幣価値が下がる中、無尽蔵にあると思われた資金も底を尽き、ついに、現在の博多駅の前に当たる、数千坪の土地まで、総てを差し出してしまうのです。
斯くして両親が所帯を持つ頃には、何も残っていませんでした。
 このように、テクノロジーは戦争によって次々に変貌を遂げ、より強力な武器を目刺すように、世界大戦ごとに、大量破壊兵器を生み出し、ついには、今度の世界大戦ては大戦末期、人類史上最悪の核兵器を完成させるのです。破壊兵器を完成させた後に、言い訳のように平和利用を考えるのです。テクノロジーはある目的の為、主に人類が知恵を絞り、後世に残す為、切磋琢磨して編み出した知恵ですが、所詮人間の為せる技、取りこぼしや不完全は当たり前、核兵器の平和利用もいまだに、安全コストと採算の摂りにくいものになっています。
又、テクノロジーは各分野にわたり、大量生産により、良い面と悪い面を併せ持つようになって来ました。
人間には事前の自制心が乏しいのでしょうか、
 ところで、お話しは飛びますが、ずーと前から疑問に思っていたのですが、幼少期の記憶をさかのぼって行くと、段々記憶が断片的になり、二歳・一歳の頃には更に、印象的な記憶だけが残り、一歳だつたか、零歳であったか、事柄で判断すると、例えば、オムツを交換中に放尿した時の反応の面白さ等、更に、ハイハイ出来るか出来ないかの頃、父のひげが痛くてきゃっきゃっと、笑うしかなかった事、更に遡れば、不安な時間から誰かが、優しくしてくれて、更にしずかな時間が流れ、優しい存在に気付くのです、それが、誕生間近の記憶なのです。
ですが、それ以前の、多少の映像の記憶が・・・・、目が見える訳では無いので生まれる前の映像は正に、前世か神様の世界か、色々な説やお話しが有るなか、ふと、孫娘に、聞いてみたのです。妊婦さんの模型を見ながら、ママのお腹の中で何してた?すると、「テレビ見てた」と帰ってきたので、ママのお腹にテレビは入らないよ、・・・
どうもテレビではなく映像が見えていたらしいのです。もしかしてテレパシー?
或いは、胎児と母親との間にへその緒を通して、映像を伝達する細い神経の様なものが、存在するのかも、テクノロジーが進めば、こう言う疑問も解けてくるのでしょうが、不思議なことや疑問に思うことを、交え、専門分野を掘り下げ、自然科学全般のテクノロジーや技術を考えてみたいと思いますが。
私の専門は、二歳〜三歳の頃から、父の仕事を観ている、そう、父方の祖父・曾祖父が作るのに失敗した、
印刷全般です。

 前置きが長くなりましたが、役に立つか否か、書き留めて置きます。



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